現在地:信楽の観光スポット(2) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
【枝垂桜(しだれざくら)】 ごまかし |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信楽の観光スポット(2) このページでは信楽の観光スポットを紹介します。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
紫香楽宮跡(甲賀寺跡) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
紫香楽宮跡の礎石 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
紫香楽宮跡は甲賀市信楽町黄瀬・牧にあります。307号線の牧の交差点から水口よりの一つ目の信号を北側に行ったところです。 紫香楽宮は聖武天皇の時代に造営された宮都です。740年(天平12年)の「藤原広嗣の乱」を契機に平城宮を離れた天皇は742年(天平14年)信楽の地で離宮建設を開始し、743年(天平15年)10月には「大仏建立の詔」がこの地で発布されました。 翌年の11月の体骨柱(大仏鋳造の内型の芯柱)を立てる式典に際して、天皇自らが綱を引いたと記録されていることから、紫香楽宮での大仏建立は、順調に進んでいたことが推測されますが、745年(天平17年)の紫香楽宮廃都とともに中断され、東大寺(奈良市)で新たな大仏が建立され現在に至っています。 この丘陵の遺跡は、1926年(大正15年)に国史跡と指定されましたが、その後の発掘調査で、宮殿跡とされた礎石遺構が東大寺の建物配置に類似することや、山城国分寺跡と同笵瓦が出土することから寺院跡であることが判明し、甲賀寺跡と推測されています。2000年(平成14年)には、宮町遺跡で紫香楽宮の中心区画が発見されています。 しかし、現存する礎石遺構が大仏建立のために建設された甲賀寺と仮定すると、東大寺の規模と比較して面積で三割弱に過ぎず、丘陵全体では東大寺に匹敵するほどの面積が確保できるにもかかわらず、「国中の銅を尽くし、大山を崩す」という大仏建立の詔に対して、その規模は狭小です。 さらに紫香楽宮廃都後も、文献には「甲賀宮国分寺」と称される寺院が存在していることが確認されていることから、現状の遺跡をどのように解釈するかが、今後の検討課題になっています。(※文章は紫香楽宮跡の案内看板より引用しています。) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
甲賀寺の推定CG |
紫香楽宮跡にある「紫香楽宮神社」 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
畑の都しだれ桜 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
畑の都しだれ桜は滋賀県道522号線沿いの信楽町畑(はた)地区にあります。樹齢400年ともいわれるエゾヒガン桜で甲賀市の天然記念物に指定されています。例年見頃は4月上旬~中旬です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
畑(はた)の地名は発田(墾田の義)から起こったという。この桜は都の原産といわれ、文献によれば平安後期平家滅亡の折身寄りの人達が都落ちの際に、都を忍ぶために桜を持ち帰り植えたと言われ、都しだれとも言われている。又深堂の郷の由来は、(深堂山遍照院西光寺)号する寺を織田信長の焼き討ちにあい再建されたのがこの地であり、その時の記念樹として植えられたと言う説がある。又一説には江戸時代初期、徳川家康が、江戸と京都を行き来する折、刺客を避けるため、伊賀から、多羅尾、小川、柞原(ほそはら)から畑を通り田上(たなかみ)不動寺を越えて瀬田、京都への道(徳川家康隠密街道といわている)を往来したといわれている。畑で休憩された所に桜を植えられたというのが、このしだれ桜であるという説もある。江戸時代初期から四百年になることから樹齢四百年といわれるのである。四世紀以上も美しい花を咲かせ、この小高い丘の上より我が郷を見守り続けてくれたのである。
|
傍にある由緒説明看板 (←が原文です。) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
甲賀市指定文化財(天然記念物) 畑しだれ桜保存会 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|